良い出来事、悪い出来事


人が、その人生の中で経験する、状況・出来事が、究極的・絶対的な意味において、良いものであるのか悪いものであるのかは、どの時点で結論を下すかによって、どのようにもなり得るものだと感じています。

一年前に起こった、自分の人生をメチャクチャにした災難・災いと思っていたことが、一ヶ月後には、自分の人生を劇的に変換させた、最高の祝福・神の恩寵と感じられているのかもしれません。

そのように、ある出来事が、魂の成長と云う観点において、究極的に「善なる」出来事であるのか、「不幸なる災い」であるのかは、最終的に、人生の終わりの最後の瞬間(あるいは、更にその先に)になるまで分からないことなのかもしれません。

あなた様が現在見舞われている過酷な状況が、祝福すべき良き出来事であるのか、同情されるべき不幸なる事態であるのかは、私には分かりません。

ただ、そういう大変な状況が日々の生活に起こっている以上、その出来事に、そのつど、自身の中心(奥底)の声に耳を澄ませ、耳を傾けながら、瞬間瞬間、自身を通して最善の対応が為されることを神に(あるいは運命に、あるいは何かは分からない絶対なるものsomethingGreatに)祈りながら、一瞬一瞬、泳ぎ抜いていくしかありません。

その、為した対応が、良きものであったのか誤ったものであったのかは、誰にも、どこまで行っても分からないことです。

今、自分にできる、自分に考えられる最善だと思えることを、祈りを持って、愛を持って為すしかありません。

結果は神に任せ、また成功か失敗かの判断も、自分の限定され、短いスパンで考えられた、小さな頭で出すことなしに。

ただ、私自身の(これも正しいかは分からぬ)印象で言えば、最終的な決断(実際行動)は、内観研修を受けられた後に、もう一度、再度熟考されてからにした方が良いのではないかと思います。

内観後に、もしそれまで考えられていた「最善なる対応」とは異なった「最善・解決策」に思い至ったときに、それを方向修正できるだけの余地を残された形で屋久島に来られることをお勧めしたく思います。

以上、私の書きました提案が、良いもの・適切なものであるか間違ったものであるか、私自身にも分かりません。また、責任も取れません。
しかし、今の私に思いつける、最善だと思える提案を書かせて頂きました。

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