反応系アファーメーション
誓い・願う 心理的(内的)方向づけ、自己再-教育
日常生活の中の様々な状況、様々な場面のなかで噛み締め続ける。
気がつくたび、機会あるたびに、繰り返し考察し、適用し、精神(脳)構造に浸透させ、定着させていく。脳に新しい回路を作る。第二の本性、習性、習い性となってしまうまで、くり返しの実践(実際適用)。
● 現実(現象)の根本的受け入れ・受容(根本的態度変更)
これから先、私は私が出会うことになる(私の前に起こってくる)、すべての現象、すべての生における状況、すべての人との関わり(人間関係)を、すべて肯定的・受容的に受けとめます。
そして、そこから(あらゆる状況、あらゆる関係から)何かを学び取ります。
好/悪、非難、悪感情などの否定的反応・否定的感情によって、その関係を(そこからの学びを)否定しません。
私の人生に起こる出来事はすべて、自分について学ぶため、自分で引き起こしたものである。
すべての状況が、何らかの形で、私の師(先生)である。
人は、すべて我が師なり。
老若男女、人は皆師。
彼は(この状況は)、私に一体、何を教えてくれよう(気づかせてくれよう)としているのか。
仕事(問題)に関して真に重要なことは、何かをすることによって、そのうんざりさ・退屈さを和らげる(紛らわせる)ことではなく、その抱えている仕事(問題)に対する抵抗感を、いかに無くしていくか、と云う点にある。
与えたもの(送ったもの)を私は受け取る。それは、どんな場面においてもそうである。(霊的なブーメラン)
現実を嫌悪することで、その現実が変わるという「信仰」。
それを変えること。現実の状況を変えようとするのではなく。
神さまが人に試練を与える時、必ずその人に克服できることしか与えない。
必要性の無い経験は存在しない。今、現在、既に経験してると云う事は、全て自分にとって必要だったからだ、と云うこと。
私に不快な気持ちを味あわせた人に、私は感謝して良い。
なぜなら、その人は、私にエゴ防衛的な反応(不快感・嫌悪感)を引き起こしてくれ、
そのお陰で、私は自分のその反応に気づき、それについて学ぶことができたのだから。
どんな人間関係にも意味がある。
無意味な関係、偶然の関係などというものはない。
配偶者から、顔も知らない電話交換手に至るまで、どんな出会い、どんな関係にも、幸福な関係でも不幸な関係でも、つきあう時間の長さや関わりの深さの度合いを問わず、そこには意味がある。
ただすれ違っただけという些細な関係からでさえ、そこから真の自己に関する大きな学びを得ることができる。
どんな関係も学びの機会である。
電車の前の座席に座った一人の人を見て湧き上がる、あれこれの思い―品定め、不快や蔑視、その他諸々の感情。
それらがしっかり自覚されたならば、それは深い自己理解の機会となるだろう。
職場での人との関わりの一つ一つに自分がどんな反応をしているか、
普段はほとんど自覚もされずに流れ去っていく感情に気づきの光が注がれたなら、これも深い学びにつながることだろう。
ある人物をなぜか毛嫌いしたり許せなかったりするのは、
自分自身の同じような面を自分自身に受容できていないからだということがある。
結局人は、自分を受容し得る程度にしか、他人を受容することができない。
受容は、逆に言えば、抑圧の減少、気づきの拡大でもあり、「自己」という境界の限りなき拡張とも言える。
「自己」という枠組みに取り込みにくい自分の側面は抑圧され、他者に投影される。
「自己」というフィルターが弱まれば弱まるほど、内外の事物は、自己中心的な解釈や歪曲なしに受け入れられるようになる。
ある人の、ある性質・ある言動に対し、不快感や嫌悪感が起こるとき、
まず、自分のなかに、その人のその性質と同じものを、未解消な形で抱えていないかを考えてみよ。
ある人の、ある性質・ある言動に対し、怒りや腹立ち、攻撃心が起こるとき、
その言動の「何が」、自分の自己イメージのどの部分を刺激し、防衛的な反応を惹き起こしたのかを考えてみよ。
あなたが心の中で悪く思っている相手は、あなたが(頭の中で、勝手に)そう思っているだけで、実は全くそうでは無い可能性が、大いにある。
人を嫌うと、その人にも嫌われる。自分が嫌ったから、相手からも嫌われた、と理解せよ。問題は、相手の側にはない。
不快な現象(出来事)に出会う(身を置かれる)ことは全て、自分の中の不快感の動きを学ぶ為の機会・チャンスである。
とりわけ、嫌いなタイプの人間が傍に来ると云うことは、その人を通して、「不快感」と云う心の動きを学べと云う天のお示しである。
● 全託
この瞬間、宇宙の働きの中で起こることは何であれ受け入れねばならない。
それを否定、抵抗することが人間に苦しみをもたらす。
どんな形のものにしろ苦しみの意味するところはひとつである。
それは、私が宇宙的調和から外れているということである。
調和しさえすれば、苦しみは熄む。
この世は、物事が本来の方向に進むように定められている。私はそれを変えることはできない。
すべて人生で起きるコトは、私にとってちょうど良く、将来の為に今ここで経験させられている重要な学びである。
あるいは、過去に私が蒔いた種を刈り取っているのであり、カルマが消えていきつつあるのだと理解せよ。
すべては異熟(過去に作った原因の結果・蒔いた種の結実)である。起るべくして起ってきた。
私には、それを受容する(受け取る)しかない。
各個人のカルマに従って、宇宙全体が全事象を動かしている。(展開している)
故に、起こるよう運命づけられていることは、いかにそれを避け、阻止しようとしても必ず起こるし、
起こるよう運命づけられていないことは、いかにそれを起こそうとしても起きない。
● 人の行為に関する決定論的理解の徹底
自分にとって、不快な、イラつく、理解できない人の行動が、なぜ行われるのか、決定論的に考えてみる。
その人の遺伝と環境(これまでの生育環境と現在の環境)を考えると、人を怒ることはできなくなる。
全ての人が、その結果がどうであれベストを尽くしている。
それ以上、それ以外のことは、やろうとしても(為そうとしても)やることはできない。
他の(私にとって、より良い、より好ましい)言動・行動の選択の可能性はない。
だから、責めたり、腹を立てたりしても仕方がない。
それは、私の側の考え違い(考え方の間違い)に基づいている。
自由な意志など全く介在していない、自然現象と変わらない。
それは、「反応」であって「行為」ではない。
宇宙の因果の網の目の、必然的な展開・結果としてそうなったとしか言えない。
もし他人を傷つけることが、あなたを傷つけている人の本性であれば、
あなたにもその人にもその人の本性を変えることはできないのであり、
怒ることは的外れなのだと考えることができる。
もし、害を与える事が本当にその人の本性なら、
その人にはそれ以外の行動を取ることは決してできないであろうから。
シャンティデーヴァも言っているように、
「他の生き物を傷つけることが幼稚なものたちの本性であっても、
彼らに腹を立てることは、やはり良くないことだろう。
それは、火に燃える性質があることを嫌がっているようなものだろうから。」
参照
「人生を心から楽しむ―罪悪感からの解放」
「あなたは自由ですか-―決定論の哲学」
● 布施
この人に対し、今、私に、何ができるだろうか。
今、私にできる(してあげられる)最高のことは何だろうか。
常に、そのような発想で人を見つめる(人と関わる、関わりのある人に対する)。
「この人から何をして貰えるか、何の満足・利益を得ることができるか」からの発想の転換。
「私には何かが足りない」とか「何かが必要だ」と感じたときには、まずそれを人に与えることだ。
そうすれば、それはいつか自然なかたちで私に返ってくる。
故に、単純に、私は私が欲しいと思っているものを、まず人に与えるのである。
私が相手(他人)に、下意識的(無自覚的)に望むことは全て、私が自身のために望んだこととなる。
欲望(意思)は霊的なブーメランなのである。
送り出したものを私は受け取るだけのこと。
故に、ただ、常に、相手(他人)と自分との両方に善きことのみを望むのである。
もし、何も与えられなくても、「活力をあげる」ということはできるであろう。
あるいは、慈悲の祈りも。
バスに乗れば、乗り合わせた乗客の方々に慈悲の瞑想をしてみる。
プラットホームで電車を待っている時にも、「この駅の構内にいる全ての人が幸せでありますように」と、ミニ瞑想。たった十五秒でも構いません。
● 慈悲の瞑想(慈しみの祈り)
私が、幸せでありますように。
私の、悩み・苦しみ(心理的問題)が解消されますように。
私の、願いごとが叶えられますように(実現されますように)。
私が、心の平安、安らぎ、本当の落ち着き、真の幸せに至ることができますように。
○○さんが、幸せでありますように。
○○さんの、悩み・苦しみ(心理的問題)が解消されますように。
○○さんの、願いごとが叶えられますように(実現されますように)。
○○さんが、心の平安、安らぎ、本当の落ち着き、真の幸せに至ることができますように。
・私のまわりの人々が(具体的個人の顔を思い浮かべて)….
・私が、これまでが(今日に至るまでの人生に於いて)、出会い、関わりを持ってきた人々(嫌な思い出の残っている人々、心にしこりの残っている人々、喧嘩別れした知人など)….
・私の知っている人すべてが(すべての人々が)….
● 懺悔
私は許します。
この(10日間の)修行の間、自覚的、無自覚的を問わず、
私の周りの人々が、私に対してしてしまった(味あわせてしまった)、すべての不快な言葉や行為、言動のすべてを、私は許します。
私は許しを請います。
この(10日間の)修行の間、自覚的、無自覚的を問わず、
私が、私の周りの人々に対してしてしまった(味あわせてた)、すべての悪感情を含んだ言葉や行為、嫌悪、不快感、怒りを含んだ思いに関して、私は許しを請います。
● 伝統的な懺悔誓願文
懺悔いたします。
無明の闇に覆われて、身・口・意の三業によって犯してしまった過ちがあります。
仏・法・僧に対する過ち、恩師に対する過ち、生きとし生けるものに対する過ち、これら一切の過ちを懺悔いたします。
また、私が受けた他のひとの過ちも許します。
このように俗事を離れ、独り静かに自己の心身を気づきを持って見つめるとき、瞬間、瞬間、生滅変化し続ける現象を観-行(自己観察-行)によって洞察し、真の幸福を得て、解脱の道へと導かれますように、と、ここに誓願いたします。
● 試訳
私の人生に於いて、現在・今日に至るまで、無量の時の流れのなかで、
貪り(欲望)と怒り(嫌悪)と愚かさ(理解力のなさ、蒙昧さ)の故に、
自覚的、無自覚的を問わず、
からだ(の行為)において、言葉において、そして心(想い)において、
私の為してきた諸々の悪しき行為(行い)を、私は、懺悔いたします。
諸々の悪しき行為・言葉・想念に関して、私は許しを請います。
どうぞ、お許し下さい。
→この後、逆想念―感謝の念を放つ 「ありがとうございます」「幸せであれ」
・瞋恚→自分の心に逆らうものを、いかり、うらむこと。
● 緊急時の大丈夫マントラ
大丈夫、心配しないで(怖がらないで)、安心して、すべて上手くいくから。
・ 思い詰めないで、思い続ける(唱え続ける)。
● 反応系断片
想像が細部にわたっているとき、神経系統的な働きとしてみれば、それは実際の体験とまったく同じである。
そこにはカルマが、心理的刷り込みと習癖という形で蓄えられている。肯定的であれ否定的であれ、ある特定の思考パターンをとる癖があると、その癖はいとも簡単に刺激され誘発されて、いつまでも、何度でも繰り返される。この頻繁な繰り返しによって、私たちが眠っている間も、癖と習慣は着実にその根を深め強大化してゆく。
一度形成されてしまった本能的、習慣的な習癖・潜在力は、わずかな、ごく些細な刺激によっても簡単に活性化されることを覚えておかなくてはならない。
心の流れを浄めるため、あなたは残された時間―この生を使わなくてはならない。
意識ある人は他人からコントロールされることはない。
他人の問題を自分のこととすべきではない。
誰かがあなたに向かって無礼を働いたとしても、どうしてあなたが心を乱すことがあろうか。
日ごろ心掛けて実践していることが、その人を作る。
それが、その人自体になる。
宇宙全体を通じて、類は類を生むのである。
憎しみ、嫉妬、悪意、疑いなどの感情は、すべてそれと同様の子供を生む。
すべての否定的な想念は、再びそれと類似の想念を生み育てるのである。
たとえ、たった一つの思考であれ無駄にしてはならない。
心的エネルギーを大切に蓄え、それを高い目的のために使うがよい。
無益な情報を脳に貯め込むことなく、まずは心を一掃する手段を学ぶがよい。
心の庭のくだらない雑草を常に引き抜く作業が必要である。
心は常に、数限りない、ざわついた思いに占められている。
そして、それに振りまわされる。それが、その人の人格を作る。
いや、それが、その人「そのもの」なのだ。
故に、自身の思考の中身・内容に注意せねばならない。
心は習慣の束である。
適当な機会さえあれば、習い性となった悪い癖・習慣が心の表面に現れる。
習慣が絶えず繰り返されて定着すると第二の性格となる。
潜在意識の残存印象が浮上してくると、その欲望の対象に心は流れ、その対象を得て楽しみ、欲望が満たされるまで、心は落ち着きなく対象を思い続ける。普通、人間は、その印象・欲求に逆らうことはできない。
潜在意識の残存印象は行為を引き起こし、その行為によってその印象は更に強まる。
そのような悪循環を抜け出さなくてはならぬ。
その残留印象を焼き滅ぼすこと。
自分を管理するのは無意識ではなく自分自身である。
水面に一滴の油を落とすと全体に広がる。
無駄なエネルギーのたれ流しは人を大変弱くする。
散漫で弱い思考には、散漫で弱い力しかない。
凝縮された強い思考には、凝縮された強い力がある。 (虫めがねの喩え)
心の統一されたヨーギは、一度に、一つのことを、好きな時間だけ考えることができる。
無意識的、無自覚的な思考こそが、状況、現実を作る。
私の思考が、私の現実を作り出す。
私の考えることの一つ一つが、私自身やまわりの状況に作用していく。
毎日、何千もの思考が、心を行き来する。
日常の思考の流れが現実を作る。
故に、心のなかの思考の動き方に注意して、それを、しかるべき方向に向けてやることが必要である。
自分の思考に気をつけて、それを望ましい方向に向けてゆくこと。
「思考を変えること」は「現実を変えること」である。
おのれを以て、人を見るものなり。
愚人の見るはおそろし。おのれに利欲あれば、人をもその心を以て見るなり。
色深きは、色を以て見るなり。聖賢の人にあらざれば、見る事あやうし。 至道無難禅師
真正参禅の人の前には、吉凶、栄辱、逆縁、順縁、尽く道業を助ける糧となり、懈怠、惰弱の人の前には、かりそめの塵事も、夥しき障りとなる。
交通事故で片足を失ってからの、彼の立ち直り方が素晴らしい。
彼の幾つかの言葉を引用します。
「身体障害というのは、自分がそれに甘んじる場合にだけ障害となるんだ」
「生きている間にはどんな悲劇が起こるか分からないけど、すっぱいレモンをおいしいレモネードに変えるのは君たち次第なんだ」(と、ある小学校での講演会より)
これらの発言は「夜と霧」の「与えられた環境でいかに振舞うかという最後の自由は奪われない」という言葉に通じるものがあります。また、斎藤一人さん著「変な人が書いた成功法則」の、「困ったことは何も起きていない、と認識するところから全てが始まる」とする超ポジティブ思考も思い出しました。
「人間を判断する目安は、その人が逆境に陥ったときにどうするかである」(R.C.Savage)の言葉が著者の支えだったそうです。「予期せず遭遇した困難は、次に良くなるためのチャンスなのだ」ということを体現している様がこの本から窺い知れます。
大きな悲劇で、それまでの人生設計の変更が余儀なくされることは起こり得ることです。そこで人生設計が「狂った」と思ってしまうか、新しい人生が「開かれた」と思えるか、が立ち直るか否かの分岐点なんだな、と再認識しました。
私が裁くように人に裁かれ、私が計ったそのハカリで私自身も計り返されるであろう。
私の中の「他人から否定されたくないという執着」「現実から乖離し、肥大した自己イメージ」等が減少すればするほど、自分への無根拠な中傷は気にならなくなるでしょう。
あなたは、色んなことを知っているが、ただ「あなた自身(自分)」だけを知らない。
あなたは、色んな場所・人を見てきたが、ただ「あなた自身(自分)」だけを見たことがない。
あなたは、色んな本を読んできたが、ただ「あなた自身(自分)」と云う本だけは読んだことがない。
あなたは、色んな映画を見てきたが、ただ「あなた自身(自分)」と云う映画だけは見たことがない。
何かが欲しいと願う人は、必ずそれを実現する力が与えられる。
ただし、それに向かって努力はしなければならないが。


