全詫と覚醒


縁有る、ある方の書かれた文章です。
捨てておくには惜しい内容だと思い、お願いしてこちらに置かせて頂きました。 (霊基 )


◆ 人生を信じる

神仏は、単数か、複数か。

私は、複数だと思う。

旧約聖書にも、神は複数で表記されている。
複数形には、単数ではなく複数である事実を伝えるための複数形と、
複数形にすることで尊敬・畏敬の念を表す意味での複数形とが存在しているが、
私は、神は複数だと思う。

陰陽の交わりの中で現象は生まれ、地球に影響する天体が複数であることは、真理の一つの結果であると思う。

複数の神仏が存在するが、しかし、それらは物質的な形を持たない霊体・意識体なので、
「複数」の存在としての区別のしようがない。
総じて、一つである。

諸仏は、すべて大日如来である。

太陽も、木星も、月も、地球に対して引力を及ぼしている。
はるかかなたの見知らぬ天体も地球に影響を及ぼしている。
複数の天体が引力を及ぼすが、しかし、地球の軌道は一つである。


エックスの二乗=1

このエックスは虚数である。
虚数とは、目に見えない力・存在を便宜的に表現したものである。
その「存在たち」の相互作用の結果、目に見える現象が生じる。
目に見えるものは実体ではなく、実体の影に過ぎない。
それゆえに、目に見えるものは一切皆空なのである。

あらゆる現象の背景には、無数の実体の相互作用が在る。

霊主体従・霊体一致とは、これと同じことである。

法華経の如来寿量品のなかで、お釈迦様が、ご自身が、量ることができないほど遠い昔から生きていることを告白されているが、
これは、お釈迦様は遠い昔から輪廻を繰り返してこられたということではなく、
お釈迦様を含め、一切衆生は、遠い昔に得仏(解脱)したところの霊体・意識体によって生成化育され、常に支配を受けているということを教えている。


時間とは何か?

時間とは、目に見えない実体の動きである。
目に見えない実体は、夜空に輝く無数の天体のように、相互作用を繰り返しながら、一つの現象を編んでいく。
編んでいくという主体的な行為というよりは、
現象が、壮大な実体の動きのなかで、結果的に、編まれていくのである。

時間の支配を受けないものはないという事実は、意識体の支配を受けないていないものはないという真実の表れだ。

時間とは、複数の実体の結果であるから、真直ぐな一直線ではなく、いびつな形をしている。
最も大きな実体の運動に連動しているが、
細かくは、他の実体からの影響も受けているので、全体的には、歪な形となる。

神仏とは、時間の実体である。

宇宙を産み出し運営し、数限りない天体を動かし、地球に生命を育み、支配している。

神は、その御手を見せ給わず。ただ、天駆ける星をのみ、見せ給う。
神は、その御手を見せ給わず。ただ、舞い上がる塵をのみ、見せ給う。

野の百合は、いかにして育つかを思え。労せず、紡がざるなり。
今日在りて、明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝等をや。

朝顔の蔓は支え棒に巻きつくが、一番上まで巻き付き終ると、次はそのすぐ近くの別の棒のほうに蔓を伸ばし、移っていく。しかも、最短距離で。

蔓には目は備わっていないのに、どうして、そんな器用なことができるのだろうか。

すべての現象の背景には、目に見えない実体、すなわち、力であるところの神仏・意識体・霊体が存在しているのであり、その目に見えない実体には、計り知りれない知性・英知が備わっている。

いかに科学が進もうとも、宇宙のすべてを知り尽くすことはできないが、
この宇宙には、厳然たる事実として、限りない英知が尽くされていて、
物を空中に放っても、最小のエネルギーで、できるだけ遠くに飛んでいけるような飛び方で、飛んでいく。

真理は、観念のなかにあるのではなく、現実に尽くされてある。
あるがままの現実こそ、神聖である。

人間の人生においても、神仏は、絶対支配のなかで、神仏の定めるところの、とりあえずの最終地点まで、最短距離で導いていく。

宇宙は、真理は、科学的なものである。しかし、それを、完全に把握できるほど、人間の知性は完全なものではない。

蝉は、すぐ傍で大砲を放たれても、全く驚かない。

地球が轟音を立てながら自転していても、人間の耳には聞こえない。

一つの出来事や現象が起こるの背景には、数限りない事象が存在し、さらにそれらの事象の背景にも数限りない因と縁が関わっているが、人間の認識能力では、そのすべてを知ることは不可能であるし、た思いを馳せることさえも充分にしない。

宇宙の真理は、人間の知覚・認識・理解を超えたところにある。

人間の主張する善悪、人間が使用する言葉や名前、すべて真理ではない。

東洋の易学やインドの占星術は、数学においてエックスと表記される虚数の位置に、干支や星を配置して、目に見えない世界の力関係をシュミレーションしようと試みている。
たしかに、かなり正確に世界や人生に起こる現象を把握できるけれども、あくまでも近似値に過ぎない。
近似値に過ぎないが、現代科学よりは、真理に近い。

真理は、事実、理路整然としたものであるが、
人間の矮小な認識能力からすれば、真理は、矛盾を含んだ、理解を寄せ付けない「道なき荒野」として映るかもしれない。

世界や人生に、望まない納得のいかない理不尽な出来事が起こったとしても、地球上において時間と引力の支配を受けないものが存在しないように、あらゆる現象は、「例外なく」真理の支配を受けている。

大本神諭には「毛筋ほども違わぬ」と教えられている。

現実こそが神である。

現実を生きてこそ、大切なことが体得されていく。

つまり、人間が、自分自身の身に起こった出来事に対して好き嫌いを言って、受け入れたり受け入れなかったりすることは間違った態度であり、信心銘では、これを「病気」と呼んでいる。

金光教の教えのなかに「成り行き」という言葉がある。

人生に色々な予想外の理不尽な出来事があったとしても、そうした「なりゆき」は、神が、神の目から見た成功へと、その人が成り行くようにと導いている結果であり、すべて神のご守護と感謝して受け入れることが求められるのである。

エドガーケイシーは、そのリーディングのなかで、
人間は、「主に従うか、反するか、どちらかしかない」と述べているが、
あるがままの人生をそのまま受け入れるとき、主に従って生きているのであり、
いかなる理由においても、受け入れないとき、主に反しているのである。

聖天信仰とは、世界と人生に起こる出来事を、たとえそれがいかに理不尽で、納得のいかない種類のものであっても、すべて例外なく、聖天様のお導きであると「歓喜」で受け入れる信仰である。その心に、限りない慈悲が降り注ぐ。

天理教のお筆先には「心次第に授ける」と教えられている。
神は、人間の願いに沿って利益を授けるのではなく、その人の心の在り様、つまり、神に寄り従おうとする心、いかなる現実も感謝の心でいただく姿勢に、祝福を与えてくださるのである。

イエスは、民衆の嘲笑に晒されながらも、神が用意した「はりつけ」の道を受け入れたから、イエスは、神の寵児となることができたのである。

王の前で予言をしたかと思えば、やもめ暮らしをした凡人も、やがては、人々を教化する偉大な指導者と成り行くのである。

これが人生であり、神の道である。

あなたが、自分自身とその人生を歓喜で受け入れ、神仏の導きと素直に感謝できるとき、真理を生きている。

神の道を生きるとは、あるがままの現実を受け入れることである。
神仏は、A地点からB地点まで最短距離で人間を連れて行こうと導かれるので、
もし、その途中に道を塞ぐほどの障害物があれば、人間は呻吟したり、迷ったりするが、
つべこべ言わず、神仏の導きと喜ぶことである。
人間は生きていく中で、真理に反した想念を造り出すが、
これは、後々、人生の大きな障害となって、その解消のために、理解不能な不運を体験させられる結果となる。
しかし、そんなときも、「ひとつ、真の幸福へと導いていただいたのだ」と感謝することが、正しい在り方である。

また、人が理不尽な境遇に置かれるのは、障害物が行くてに横たわっているからということもあれは、今が進むべきタイミングではないという神慮かもしれないし、そちらの方向ではないというお示しかもしれない。しかし、人知で神意がどこにあるかを想像することは、誤る危険を含んでいるので、いろいろと複雑に考えずに、ただ、現実はご神意のままに表れているのだと、絶対守護をいただいていることを喜ぶだけなのである。

もしどうしても、これが欲しい、あれが欲しいと思うなら、それを神仏に祈願すれば良い。
神仏は、神仏が定めた地点に矛盾しない範囲であれば、A地点からB地点までの道すがら、ふとした形で、与えてくださるものである。
それは、奇跡のように、人知を超えた形で与えられることが多い。
人間は、どんなに視力が良くても、紙一枚向こうは見えない。
その程度の知覚能力しかもたない人生設計なんてものは、神仏の前では無力・無意味なものである。
開運法等も、あくまでも神仏の許す範囲のことであり、無理に行えば、自然の摂理に反し、神仏の怒りを買うことになる。
もし、警告を頂いているような現象が起これば、祈願を中断すべきである。

神仏が人々に恩恵を与える条件は、真理に寄り添う決意を持って、あるがままの現実を歓喜で受け入れ、目の前に与えられたなすべきことに精一杯取り組むことである。
いま、目の前のことを、今日一日取り組んで入れば、ふと気づいたときには、目標地点に到達している。
どんなに高い山を登るときも、向こうばかりを見ず、目の前の一歩を大切に運ぶことである。

現実をあるがままに受け入れることにおいて、「どうするべきか?」という技法やテクニックは存在しない。
ひたすらに、不断に、目の前のことに心を開いていくしかない。
しいて言うなら、神への愛こそが、現実を受け入れる精神状態と原動力を生み出す。

「こうすることは、神の御心である」と、何かの方法論を固定することは、広大な神の御心の隅っこの一部、しかも過去になりつつあるものに額縁を付けて、これこそが神の御心だと矮小な知性によって盲目的に決定・固執していることに他ならないのである。
いかに、本人に悪意がなく、むしろ賢明な努力のつもりであっても、世界の一部を評価することで、その他の部分を否定することは、結果的に、神の御心に反するのである。
いつでも、今この瞬間に神のおっしゃりたいことに耳を澄まし、情熱的にあるがままの現実を神のおはからいとして全面的に受け入れる姿勢が、真実尊いのであり、形が重要なのではない。

いかなる宗教宗派に属していても、在り方さえ正しければ、真理に沿うことはできる。

悟り・覚醒・解脱を欲して、あれやこれやと行法を修することは、まことに結構なことではあるが、「これをすれば覚醒できる」という計画は、多くの場合、苦しい現実からの逃避(エゴ)であり、神仏の意思に反する在り方であり、人間のこうした浅薄な「はからい」も何もかもを捨てて、ただ、神仏と人生に全託(全面的な信頼)して、目の前のことを喜んで受け入れることが、実は覚醒への近道であり、真の信仰なのである。

あるがままの現実を通して、神仏の御意思を、いまここに、直接にいただく、いわゆる真理の直接体験が、最も美しい。

いかに手痛い出来事が起ころうと、神の導きと喜び、受け入れ、さらに生き生きと生きることが、信仰である。

悟りとは、自分の好き嫌いを離れて、目の前の真理を受け入れることであり、覚醒や解脱とは、そうした心が極まって、雲が晴れたように、あらゆる葛藤が消滅したところで、不意に感じられる底知れぬ安堵と軽やかな喜悦である。

人間にとって絶対的な善なる存在が、すべてを絶対的支配下に置いているのである。
私たちは、その実体の結果であるので、本来的には、天人一致・神人一致であって、そこには差異は無いのであるが、しかし人生という道を与えた立場と、どこへ導かれるのかも知らされず、与えられた道を有無を言わさず歩かされている人間との間には、主人と奴隷、神と信者の関係があり、ラーマクリシュナは、覚醒を得てもなお、この関係を誤ってはいけないと教えている。

神仏は、人間をどこへ導こうとしているのか?

これを真に知ることは、知覚能力の限界性のために不可能なことであるが、
想像してみれば、人間を神そのものへと成らしめようとしているのだと思われる。
簡単に言えば、天人合一・神人合一である。

黒住宗忠は「心が神となれば、神である」と教えている。

法華経においても、妙音菩薩(弁財天)が、諸仏と法華経に帰依・供養したことにより、美しい仏となったように、神仏の与えた道に従う心(意識)の成熟こそが、人間の目指すべき地点なのである。

マイスター・エックハルトも言っているように、無心は、善の源泉である。
己を空しくできてこそ、本物の愛である。

神仏が、善なる形で、一切を絶対支配しているのである。

ゾクチェンやタントラが教える通り、一切は清浄にして、完全なのだ。

人間にはあるがままを受け入れるしか道は無く、そこから外れる動きは逃避(神仏への背信)であり、
人間には、そのような意味において、選択肢と自由はないのである。


「波のまにまに 浮き沈み
潮の満干に 行き還り
君よ ひたれよ とわのやすらぎ」






◆ 新しい生き方

悟りや覚醒に、どうして興味を持つのですか。

いまの人生に疑問があるのですか。

陳腐な人生から逃げたいのですか。

それとも、格闘して変えようと思っているのですか。

いまの地点から、素敵な地点へと移住しようとしているのですか。

はたして、本当に、そんなことができるのですか。

現在とは、何ですか。

現在とは、過去の蓄積の結果ではないですか。

過去の要素が絡み合って、現在があるのではないですか。

物理的な事実として、過去のものが蓄積して現在があります。

心理的な事実としても、過去の記憶の範疇で人は考え、
過去の蓄積の結果、現在の考えがあるのではないですか。

現在に、過去に基づく修正が加えられ、未来が形作られていきます。

未来もまた、現在の蓄積の結果ではないですか。

過去の蓄積が現在であり、現在の蓄積が未来です。

ということは、すべてが過去ではないですか。

あなたが、いかに素晴らしい生き方を思い描こうとも、
その発想は過去の結果でしかなく、過去の延長線上にあり、
何一つ新しいものはありません。

いかに芸術家が新しいものを生み出そうとも、
それは新しく見えるだけであって、
過去の組み合わせでしかありません。

彼らが作り出しているものは、いかに新しく見えるものであっても、
まったく新しいものではありません。

誰も、過去から、一歩も出ることはできません。

聖者と呼ばれる人たちは、新しい生き方を提唱しましたが、奴らはみな、嘘つきです。

新しいものなんて、生まれようがないのに、
あたかもそんなものが存在するかのように、あなたに言いました。

よくよく考えていただければ分かる通り、新しい生き方なんて、ありえないのです。

すべては、過去の範疇です。

新しい生き方を提唱することは、理想と希望を与えますが、
しかし、その理想や希望さえも、過去の反映でしかありません。


占星術によって、人の運命は予測できます。

たとえ、それが覚醒者の運命であっても、予測は可能です。

なぜなら、肉体人間は、惑星(究極的にはグナ)の絶対支配のなかに生まれているので、
覚醒者といえども、そこから抜け出すことは不可能なのです。

ラーマクリシュナもクリシュナムルティも、占星術の予測通りの人生を歩み、
予測通りに亡くなりました。

覚醒者といえども、病気もするし、怒りもするし、貧乏もするし、下痢もします。


一切皆空という概念があります。

すべての事象は、因縁(発生要因と促進要因)によって起こり、
すべては連鎖しており、どこにも独立した単体は存在しないという世界観です。

現在は過去を因縁として起こり、現在を因縁として未来が生じるという話です。

もしそうであるなら、この宇宙のどこに、全く新しい秩序のものが生まれてくる余地があるというのでしょうか。

何か努力を重ねたり、何か工夫をすることで、新しいものが生まれてくるはずだという考え方は、人類が抱える幻想です。

すべては、過去であり、因縁であり、大きな一つの「かたまり」です。

では、新しいものが生まれることのない、この宇宙で、どう生きたら良いのでしょうか。

あいかわらず、混乱した世界の中で、欲望にまみれながら生きていくしかないのでしょうか。


動物の死骸にウジが湧きます。

同じように、「新しい秩序を持ち込むことができる余地がある」という勘違いには、エゴが湧きます。

何か新しいものを、この陳腐な世界に付け加えることはできるはずだという思い上がりこそが、「行為者としての私」です。

「この陳腐な人生に新しい生き方を持ち込めるはずだ。だから覚醒を目指す」という慢心(エゴ)こそが、探求者の正体です。

何か新しいものを期待しているから、その希望にすがるように行動するのが、世間一般の人々の有り様です。

あなたが夢想する「新しい生き方」もまた、過去の産物でしかありません。

しかし、その現実を知らない人は、何か新しいものを実現できるはずだと信じ、
自分を鼓舞し、しかし苦難に遭って、不満足になったときには苦悩し、
苦しみと悲しみに暮れる重たい自分を忘れる為に、様々な気晴らしに手を出し、
最後には中毒症状を呈します。

目的を持たずに生きる、これこそが、唯一、自由な生き方です。

目的とは、あれを手に入れるためにこれをするという計算、はからいです。

希望、目標、理想、欲望、すべてを持たずに、
ただ、目の前の現実を、その日、その日、生きることだけが、自由です。

たとえ、行為をしようとも、そこに新しいものを期待しておらず、
従って、失望もなければ、失望する主体としての私もなく、ただ、あるがままの現実しかありません。


例えば、自分は右を望んでいるのに、左に現実が進んだ場合、
多くの人は、「右に行きたい。左なんて嫌だ。自分は右に進む努力が足りないのだ」と
不満と失望と何とかで目茶苦茶になってしまいますが、
このときに、「右へ行きたいという思いは自分勝手な妄想でしかない。ただ目の前の現実を行きよう」と、心を切り替えることができるなら、これは自由な生き方なのです。

なぜなら、「右に行きたい」という思いこそが、過去の最たるもの、エゴの極みだからです。

あなたは、人生が苦しくて、出口を求めるように、覚醒や悟りを探求しておられるかもしれませんが、
その思いこそが、過去の蓄積の結果であり、自力(はからい)、エゴです。

ですが、覚醒や悟りとは、この自力からの解放です。
真の幸福とは、自力を超えたところにあります。


行(ぎょう)とは、ただ行うことです。そこに目的はありません。

無意味なことをやるのです。

坐禅に目的を持ち込むことは厳禁です。
ただ、坐るのです。ただただ、おこなう。

念仏も、ただただ唱える。
きれいにやるとか、何回やるとか、どうするこうするということなく、ただやるのです。
真言も読経も、ただおこなうのです。

ただおこなうなかで、「こうしたい、あれが欲しい」という「はからい」が、
自然に放棄されていきます。

おこないだけが残ります。

このとき、過去を生きておらず、全く新しい道を歩いています。


あなたは、雲のことしか知らないのです。

でも、雲の向こうには、どこまでも続く空があります。

あなたが雲を捨てることができたとき、空を生きています。

空は、はからいを超えた、新しい秩序です。それは言語を絶した真の幸福です。






◆ 「これは間違っている」

なぜ、人は生まれ変わるのでしょうか?

なにが、人を生まれ変わりに縛りつけるのでしょうか?

それは、「これは間違ってる」という思いです。

「これは間違ってる。改善しなくては!」という自力があるから、
「それなら、どうぞお気の済むまで輪廻して下さいな」と、
自然界が親切に生まれ変わりをさせてくれます。

自力の道は、果てしなく改善を繰り返す道であり、
他力の道は、目の前の現実を受け入れて、ただおこなう道です。






◆ これまで頑張ってきた「私」へ

この小さな体のなかで、これまで頑張ってきた「私」に、

「これまで、よく頑張ってきたね。つらかったね。もう頑張らなくていいよ。死んでいいよ」と、

優しく語りかけ、体のなかで自分が死んでいくのを静かに見守りましょう。


風が吹き去って、さわやかな秋空がひろがり、

目の前には、ただ歩むべき道が拓けています。






◆ バクティ・ヨーガ

霊的実践は数多くあるが、最も甘美なものはバクティだ。

神は、はからいを超えた道を与える。

そして、それを受け入れて、ただおこない、生きる。

ただおこなうこと、これこそが、バクティの真髄だ。






◆ ラーマの思し召し

ラーマクリシュナの言葉からの抜粋。

弟子の質問「あの御方のところに心がすっかり行ってしまっても、
なおこの世界に住んでいなければならないのでしょうか?」に対するラーマクリシュナのお答え。

「どうしてさ? 世の中に住まないで、じゃ、どこに行くんだい?
わたしはどこに住んでいても、そこが神の都だと思っているよ。
この世界、この世は、神の都だ。
ラーマ王子は師のもとで智識を得たあと、『私は世を捨てる』と、おっしゃった。
心配した父王ダサラタは、息子を説得してくれるようにと、賢者バシスタをさし向けた。
賢者は、ラーマ王子の激しい離欲の心を読み取り、こう言った。

『ラーマ王子よ、私と一緒によく考えてみよう。それから世を捨てても遅くはない。
では、訊くが、この世は神の外にあるのかい? もし、そうなら、さっさと捨てたらいいだろう。』

そのときラーマ王子は悟った。神ご自身が、人間やこの世界のすべてのものなっていらっしゃることを。
そして、あの御方が実在するからこそ、この世のすべてのものは本当にあるように感じられるのだ、ということを。
ラーマ王子は、そこで黙ってしまった。

風のなかの枯葉のような気持ちでこの世に住んでいなさい。
風は枯葉を家の中に運んだり、ゴミの山に運んでいったりする。
風の吹くまま、どこにでも飛んでいく。
結構な場所だったり、ひどい場所だったり!

神様は、今はお前を世間という場所に置かれた。
けっこうじゃないか、今はそこに住んでいなさい。
またそこからもっといい場所に運んで落としてくださったら、
その時は、またその時のようにすればいい。

ラムプラサドは歌っている。

『いのちの海に われ住みて
 波のまにまに 浮き沈み
 潮の満干の 往き還り』

あの御方がここに置きなさったのだ、しょうがなかろう。
もういっそ、何もかもあの御方に任せきってしまえ。
あの御方に、素直になって自分を任せきっておしまいよ。
そうすりゃ、何の心配も面倒もない。
そうしたら、すべてはあの御方がなさっていることが分かってくるよ。
『すべてはラーマ(神)の思し召し』ということがね。」



弟子がそれに対して「『ラーマの思し召し』とは、どういうことですか?」と質問します。

以下は、ラーマクリシュナのお答え。

「ある村に一人の機織職人が住んでいた。
とても信心深くて心がけの良い人なので誰もが彼を信頼し愛していた。
この職人は自分の織った布を市場で売っていた。
買い手が値段を訊くと、
『ラーマの思し召しで、糸の値段が1ルピー。
ラーマの思し召しで工賃が4アナ。
ラーマの思し召しで儲けが2アナ。
だから、布の値段はラーマの思し召しで、1ルピーと6アナになりやす。』

人々は、彼を信頼していたので、値切りもせず即金で買っていく。
彼は熱心な信仰者なので、夕飯が終わると、ドルガのお堂の前で、長い時間座り、
神を想い、称名賛歌を唱えるのが習慣だった。

ある晩のこと、夜がふけても眠くならないので、外でタバコを吸っていた。
すると、前の道を一群の盗賊が強盗しに行くために通りがかった。
盗賊は荷物運びが不足していたので、その職人を『一緒に来い』と無理やり引っ張っていった。
それからある家に押し入って強盗を働いた。
いくつかの品物を職人の頭にのせて運ばせた。
そこへ警察が来て、強盗は全員逃げて行ったが、
その機織職人だけが品物を頭にのせたまま、警察につかまってしまい、
その晩、留置所で過ごすことになった。

翌日、村の人々がそのことを聞いて、やってきて、警察署の署長に、
『あの人が、盗みをすることはありません。何かの間違いです。』と訴えた。
そこで、署長は機織職人に、どういう訳なのか話してみるように言った。
すると、職人は答えた。
『ラーマの思し召しで、昨晩、ごはんを食べました。
それから、ラーマの思し召しでドルガのお堂の前に座りました。
そのうち、ラーマの思し召しで夜が更けていきました。
ラーマの思し召しで、あの御方を想い、称名したり、賛歌を歌ったりしていました。
ラーマの思し召しで、眠れずにいたところ、ラーマの思し召しで強盗の一団が通りかかりました。
ラーマの思し召しで、あいつらは、あっしの手をつかんでひっぱって、
ラーマの思し召しで、あいつらは一軒の家に押し入って、
ラーマの思し召しで、あいつらは、あっしの頭に荷物をのせました。
ちょうどそこに、ラーマの思し召しで警察の旦那がおいでなすって、
あっしを捕まえていただきました。はい。
それから、ラーマの思し召しで留置所に入れていただきまして、
そうして今朝になって、こうして署長様に、ラーマの思し召しで….」

署長は、機織職人が嘘を言っているようには見えなかったので釈放した。
家に帰る途中、職人は仲間に『ラーマの思し召しで釈放された』と話していたそうだよ。

世間で暮らすことも、出家することも、あの世に行くことも、すべてはラーマの思し召しなのだ。
だから、あの御方に一切を任せきって世間の仕事をしていなさい。
そうでなきゃ、いったい何をするんだい?
悟りを得た者は、いとも安楽にこの世に住んでいられるよ。
神について正しい智識を得た人にとっては、この世もあの世もないんだ。
どこも同じさ。」






◆ 宇宙

意識という、永遠のエネルギーの海があり、そこに、一時的な組成が、この宇宙である。

意識全体からすれば、この宇宙は、ゴマつぶくらいの大きさにも満たない。

エネルギーは遊戯しており、それが宇宙である。

また、いずれ、完全に形を失い、無形に戻る。

はかりしれない宇宙で、人々は目的を妄想・捏造し、勝手に苦しんでいる。

目的を持たず、悟りなんて難しいことも考えないで、日々を楽しく暮らしたらいいのだ。

目的を手放したとき、無限の他力の海にぽっかりと浮いているのが分かる。






◆ いかに生きるか。

人は、自分で生きているような錯覚を抱いていますが、
実際は、風の中の枯葉のようなものです。

宇宙と宇宙を超えたところには、
人類なんて、砂の一粒にも満たない巨大な意識体(エネルギー)が無数に存在しています。

人間は、その複数のエネルギーから影響を受けながら生きており、
要するに、運命は他力によって決定されているので、
どこにも自分で運命を決める余地はありません。

この巨大なエネルギー体を「神仏」と呼ぶこともできます。

「自分はこう生きたい」と、人間は、小さな体で考えますが、
そんな妄想は、風に吹かれて、砕かれて終わりです。






◆ 王三昧

坐禅や念仏とは、憩いである。

憩いとは、目的や欲望から心が解放されていることである。

なんのために、坐禅や念仏をするのかと問われて、
「悟るため」「極楽往生するため」と答えるなら、
それは本物ではない。

計算であり、エゴ(自力)である。

そんな下賎な動機なら、しないほうがいい。

心が、いかなる目的や欲望からも解放されているときの静謐と安堵感、これが真の幸福である。






◆ 歓喜

本物の美しい花を見たなら、いかに美しかろうと造花には興味が持てない。

何かのために神を求めているなら、神は見えない。

ただ、神ご自身を求めることができたとき、

永遠の安らぎと愛と歓喜の泉に浴している。






◆ 最後の言葉


「すべてをあきらめなさい」

これは、自力、はからい、エゴへの最後の言葉です。

悟りの道における最後の言葉です。

「あれを手に入れるために、これをすればよい。あれを達成するために、これをしよう」という自力の発想を、すべて捨てることです。

自分で想像した道を歩むことをあきらめることです。

あきらめたとき、道なき道を歩いています。

それは、他力が準備した道です。

他力が準備した道は、一見、回り道のように見えたり、
無意味な道に見えることもありますが、
つべこべ言わず、歩けば歩くほど、
想像だに出来なかった、大きく深い、言葉にできない、真の幸福に入っていきます。

「これだけの努力をすれば、あれを手に入れられるだろう」
なんて計算づくめの生き方なんて、陳腐で小さ過ぎます。