コースの全体像


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このページでは、研修の全体を見渡すための大まかな図を描いてみます。


■ 出発地点

「気づきの研修」は、まず、各人が、それぞれ抱えている心理的/身体的問題を、どうにか免れたい、解消したい、と考えるところから始まります。

誰だって、いま問題が無ければ修行などしようと思わないでしょう。
それがどんな微妙なものであれ、現状に対する不満、逃げ出したい欲求や、求めている何か、手に入れたい心的状態があるからこそ、何か始めてみようと思うのでしょう。

問題があるから、無くしたい。 あるいは、いま無いものを手に入れたい。
では、どうすればいいか?

こちらでの研修は、それが、どんな領域にある、どんな問題であれ、自身の中の「気づき」と云う能力によって、その問題そのものを、観察し、理解(洞察)していくことによって解決を図ると云う点では変わりはありません。


「問題に対する基本的な認識について」>>


■ コースの選択

その方の抱えているテーマ・問題の性質に応じて、どのコース(具体的な行法・技法・テクニックの組み合わせ)を選ぶかを決めていきます。

順序としては、まず、心身不可分の、分けることのできない統合体である、人間そのもの、存在そのものを、ココロとカラダに分けて考えます。

そして、その、ココロとカラダの各々を、さらに二つに分け、


● ココロ(気づきの瞑想) Awareness Meditation

・ 純粋観察系の技法
(主に、思考、感情、欲求、認識のプロセスに対する気づきの技法)→ 禅、ヴィパッサナーを中心にした技法群

・ 反応系の技法
(主に、感情、ハートのワーク、私-他者との社会的な関係性のワーク)→ 内観を中心にした技法群


● カラダ(気づきのボディワーク) Awareness Movement

・ 気づき系の技法
(身体運動感覚・筋感覚に着目した、脳の通常の身体運動制御系に働きかけるワーク)→ フェルデンクライス、その他、気づき系ボディワーク群

・ 自働運動系の技法
(主に、脳のより原始的な層の活性化と、それによる後天的な(生育過程で条件付けられた)自身の動き方、身体制御のパターン、癖の対象化、更新を主眼とした技法群)→ コンティニュアム、活元運動、オショーの瞑想法などに、その傾向が強い。その他、研修所オリジナルのテクニック。


以上の四つがあることになります。

ただし、「ボディワーク系>自働運動系の技法」に関しては、通常、それのみでコース全体を組み立てることはしていません。
 自働運動系の技法が、実際に内容を伴って展開していくためには、まず基礎となる「身体と心(特に、インテンション、身体的な快・不快に対する心の微細な反応)に対する繊細な気づきの能力」が確立していなければ、よくある、ワーワー泣いて、バタバタ騒いでカタルシスをもたらすような、表面的な内容にしかならず、それならば、他のコースに時間を使った方が内容的に学びがあるからです。
 もし、行う場合も、前半・中盤の多くの時間は、気づき系の瞑想・ボディワークの技法に充てることになると思います。 あと、その方に、自働運動系の技法をやる必然性が、そのときあるのかによります。
 ただし、普段、身体表現に従事されている方など、特殊な背景がある方の場合は、短期間で上手くいく可能性はあるかも知れません。

よって、通常は、研修のコースとしては、三つの入り口があることになります。
(プラスもう一つ、ボディワークコースの短時間版としての「2時間コース」があります。)


■ コースのメニュー

1. クリシュナムルティ・禅・ヴィパッサナー瞑想の教えに通底する、「気づき・自己観察・自己洞察」の基礎作り・基礎訓練に焦点を当てた、「気づきの瞑想コース」

2. 吉本伊信師の集中内観の技法をベースに、「夫婦・家族・親子・恋人・職場の人間関係など、対人間関係における感情的問題の解決」「人間の情緒的成熟」「他者との関係性」「ハートのワーク」に焦点を絞った、「集中内観コース」

3. 気づき系ボディワークと、気づきの瞑想技法、それに食に関する諸々の調整を組み合わせた、「気づきのボディワーク コース」

4. より治療的な、からだほぐしと身体の調整に焦点を絞った、「ボディワーク(整体)の2時間コース」


「コースのメニュー」>>


■ 「食」という要素

全てのコースに、もう一つの要素として加わるのは、「食」です。

「減食、断食、副食、洗腸」 そして、なりよりも大きいのは、「気づきを持っての食事」、
これらが、ココロとカラダの双方に、大きく影響します。

「気づき」の質を上げ、純度、強度を上げるのに、食事の問題を無視しては語れません。


「食について」>>


■ 入り口は三つ、でも、出口は一つ。

観‐行の研修とは、十日間で終わるものではありません。
一度、足を踏み込んだら、死ぬときまで続く、果てしない奥行きのある道です。
その行程の一歩一歩に、気づき・発見があり、理解・洞察があり、他の何ものとも比較できない喜びがあり、そして、底なしの惨めさも苦しみもあります。

三つのコースと、それを構成している様々な技法群―
それらは最終的に、全てが一つになる(ひとつである・ひとつであった)ことによって、完成します。
それを別の技法として行じている段階では、それらの技法一つ一つの真価は理解できていると言えないでしょう。
それらの技法全てに優劣も無く、段階も無く、見分けもつかず、、、
ひとつが全てを含み、全てがひとつの技法の中に顕れ、全身を現している、
そのことに気づいてゆくとき、それぞれの流派・技法間での党派的な争いは馬鹿らしいものとなっていきます。 (勿論、技法それぞれの、特徴・色・得意な領域・不得意な領域は当然ありますし、あるからこそ、技法として価値があるのですが。)


■ 到着地点 気づきの生

すべてが、最終的に「気づき」によって統合されていきます。
あるいは、統合ではなく、それらが未分化な状態まで意識の源へ辿ると云っても良いでしょう。

それは、瞑想、ボディワーク、武術、踊り、治療(ヒーリング)など、すべてが未分化な地点であり、あらゆる技法、技術、型、動きを、気づき=意識が次々と産み出し続けていく存在の状態、意識の次元でもあります。

河に例えれば、多くの支流を見ていると別のもののように見えますが、それら一つ一つを源流まで辿っていくと、すべてが流れ出ている源、すべてが未だ分かれない地点に至ります。そのようなことです。

そして、それが日常と生活そのものと一つになる(である)こと。

芸術表現などの「ハレ」と、当たり前な日々の生活=「ケ」が、そもそも一つであること。

それを私は、「気づきの生」と呼びます。

気づきを持って生きること、気づきと共に生きること、気づきの中で生きること、
それがカラダに向かえば「気づきの身体」であり、ココロに向かえば「気づきの意識」「気づき=意識」となります。

気づきをもって食べること、歩くこと、話すこと、仕事すること―私たちの日常の生活の全てが、そこにあります。
そのとき、瞑想と云う言葉も、ボディワークと云う言葉も、研修と云う言葉も、また、「気づき」と云う言葉も、必要ないものとなるでしょう。

そして、そこには、ただ、それぞれの「生そのもの」「生のみ」が残るのでしょう。


「コースのメニュー」>>