問題に対する基本的な認識


「気づきの研修」においての、問題に対する基本的な認識・対し方・考え方については、
クリシュナムルティの教えに、なりよりも影響を受けています。

「クリシュナムルティ読解」>>

もし、研修を受けられる方の「気づき」の純度・強度・レベルと云うものが、並外れて高ければ、下に書いていくような「気づきのための補助的技法」は必要ないでしょう。
クリシュナムルティだけを読み、その言う所に従って、現在、あるがままの自分の観察さえしていけば、クリシュナムルティの言うとおりの事が起こるでしょう。
自己観察を進めていく上で必要な具体的な注意点は、クリシュナムルティが、こと細かく書き残してくれています。

しかし、私含め、多くの観‐行修行者は、悲しいかな、現在のところ、絶対的に「気づき」の純度・強度・レベルが足りません。
故に、道の行程の半ばでは、以下に紹介するような、様々な補助的の技法を使うことが助けになると考えています。

最終的に、これらの技法が身について(気づき・洞察モードが、意識・脳に構造化されて)、特に「技法・テクニック」としてやっている自覚がないまま、充分に機能している状態が日常化してきたならば、そのときには、すべて忘れて捨てて良いし、また、そうしなければ、Kの言う「限定なき、選択なき、理想(あるべき)なき、刻々の、全面的な観察」には入れないでしょう。
補助的技法には、使うべき時節があり、また離れ、捨てなければならない時節があります。

それは、初めて自転車(二輪車)に乗ることを覚えるときに、コロ(補助輪)を使うか使わないかに似ています。

「本当に二輪車で乗れるようになりたいなら、そんな助けの杖、コロを使うのは正しくない」と考えて、コロを使わないか、「乗れるようになるまで、補助輪を使ってもいいじゃないか」と考えるかの違いです。
もし、コロを使わないで、繰り返し転んで、そうしながらもそのうち乗れるようになればいいが、もし、転び続けるのに疲れて、「自分には自転車に乗る才能はないようだ」と諦めて、そのまま一生自転車に乗れないのは残念です。
また、コロの補助つきででも、自転車を運転して、「自転車に乗る」と云う行為のイメージを掴むのも、役には立つでしょう。
ただし、既にコロ無しで乗れるようになっているのにも関わらず、いつまでもコロをつけて乗っているのは、愚かなことですし、自由な乗り回しを邪魔します。そのときには、速やかに外すべきです。
それと同じようなことではないかと考えます。

ただし、それぞれの背景となる伝統を持った技法・行法は、それぞれの文化や条件づけを背負った断片的な技法であり、かならず党派性・排他性・独善性という毒を、見えない形であれ含んでいるものです。
それらに対する感受性、舌の良さを持っていないと、気がつかないうちに、その教義・理論の言うとおりに世界を見て、その色眼鏡、透明な檻に気がつけない、と云う状態になりやすく、その点の注意は必要だと思います。

そのこともあって、私は研修の前に、まずなりよりも「健康的な懐疑主義精神」を養う訓練をすることを薦めます。


参考資料

「科学的な宗教」と「宗教的な科学」
“へんな話を信じちゃわないために―健康的な懐疑主義関連本”

クリシュナムルティ 「この条件づけの問題」>>